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会報15号 「巻頭言」の訂正

「先日お送りしました会報15号で、巻頭言中、ミヒャエル・エンデの引用文献と山下雅彦先生の参照文献が欠けておりました。また、エンデの引用に誤字がありました。お詫びいたします。」

ここに訂正後の全文を掲載させていただきます。

かけがえのない子どもたちの時間を考える

二宮衆一

 ミヒャエル・エンデが、「時間どろぼう」によって、子どもたちが「時間」と「遊び」を奪われる物語『モモ』を書いたのは、1973年のことである。物語の中で、子どもたちは、「時間どろぼう」の天敵として登場する。「時間どろぼう」は、大人を手先として、「子どもの家」と呼ばれる施設を作り、天敵である子どもたちを教育しようとする。エンデは、その施設を次のように描いている。「遊びをめるのは監督のおとなで、しかもその遊びときたら、なにか役に立つことをおぼえさせるためのものばかりです。こうして子どもたちは、ほかのあることを忘れてゆきました。ほかのあること、つまりそれは、たのしいと思うこと、むちゅうになること、夢見ることです。」「子どもの家」の目的は、子どもたちを「道徳的に堕落」させず、「社会の役にたつ有能な一員」として育てることであった。(ミヒャエル・エンデ作、大島かおり訳『モモ』岩波書店、1976年。また以上のエンデの紹介と解釈については、山下雅彦「子ども時代を奪わないで−『子どもの権利条約』第31条の今日的意義」『教育』20171月を参照)(※色文字部分が抜けていました)

今の子どもたちの生活世界には、様々な「子どもの家」が乱立しているのではないだろうか。保育園や幼稚園では、英語を始めとした早期教育がプログラムとして並び、学校に入学すると、学力向上や道徳的規範の育成のための授業が待ち受け、放課後も塾や習い事でさらに勉強を続ける。子どもたちを「社会の役に立つ一員」として育てるための施設が、子どもたちの生活世界を支配している。

哲学者の内山節は、そうした子どもたちの状況を「未来との関係が現在の自己をつくりつづける」関係と表している(「子どもたちの時間と現代社会」『教育』20171月を参照)。子どもたちは、将来、遭遇する高校受験や大学受験、就職、子育てや老後の安定という「未来」のために現在の時間を効率的に消費することを強いられている。そこでは、「現在の私」とは異なる「未来の自分」との関係が主となり、家族や友だちなどの実在的他者との関係は従とならざるをえないと内山は述べる。つまり、子どもたちは、「未来の自分」との関係の中で自分の時間を消費することを強いられる状況の中で、自己との関係だけが肥大化し、他者を喪失していると内山は指摘するのである。

子どもたちの成長とは、本来、自分とは異なる多様な他者と出会う中で、自分がかかわっていく関係の世界を広げ、同時に、そうした他者を鏡として、自己の世界を豊かにしていくことであろう。今、子どもたちは、一方では「子どもの家」のような大人の強い教育的関心の下に置かれ、成長・発達に欠かせない他者との出会いを制限され、他方では、貧困問題に代表されるように、自己・他者との関係どころか、安全・安心して生活する基盤そのものを切り崩され、存在そのものの危機に瀕している。そうした子どもたちの生活世界の危機の中で、どのように多様な他者との出会いを保障し、関係の世界と自己の世界を豊かにしていくのか、そこに今の子どもたちの成長・発達の大きな課題があると考える。

日本学童保育士協会は、前身の学童保育指導員専門性研究会の12年にわたる活動の成果を土台に、20134月に発足した。その長い道のりの中で、子どもの発達とあそびの研究会や家族・子育て研究会など、多彩な研究会を立ち上げ、未開拓であった学童保育の実践的研究を切り拓くと同時に、『学童保育研究』の発刊や研究大会の開催を通じて、その成果の普及に努めてきた。そこで常に前提とされてきたのは、豊かな「子ども時代」を保障することであり、子どもたちが安心して過ごせる居場所、そして、楽しく、夢中になれる活動の創造であった。言い換えるならば、将来のために時間を消費するのではなく、仲間と共に夢中になり、楽しむ時間を創造することを、子ども時代に欠かせない経験と捉えてきた。そうした子ども時代の保障のあり方を、学童保育を窓口としながら、今後も本協会の会員と共に考えていきたい。

 

 



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